China
Basic Information (History)
:: Question ::
主な歴史的な変動は?
:: Answer ::
[中華人民共和国政府樹立]
第二次世界大戦の終結と、その前後して起きた国民党と共産党との内戦に、毛沢東率いる共産党が勝利するかたちで、1949年に北京に共産主義政党独裁国家である中華人民共和国政府が樹立されました。なお、国民党は台湾に本拠地を移し現在に至っています。
[大躍進運動]
1958年から60年にかけて、毛沢東はマルクス主義を原則とした上で、経済的に欧米を追い越すことを目標に掲げ「大躍進運動」を展開しました。農業の集団化や工業の大増産などを柱としたもので、農村のほぼすべてが人民公社に再編されました。その結果、農業生産力は激減し、自然災害も重なって数千万人ともいわれる餓死者が出ました。中国経済は深刻な状況となり、マルクス主義のイデオロギーを優先した「大躍進政策」は失敗に終わり、毛沢東は国家主席を辞任しました。この頃から、共産党内の路線対立が顕在化し始めます。
[文化大革命]
大躍進運動が失敗に終わったあと、毛沢東に代わって劉少奇・鄧小平などが、革命より社会の安定を優先する修正主義的路線に基づいて、経済を再建していくことになります。しかし、1966年頃から路線対立が再燃化し、激しい政治抗争と膨大な人々を巻き込んだ文化大革命へと拡大しました。「反革命的」とされる文化人・一般人などが政府によって大規模に粛清され、一説によると数百万人以上の犠牲者があったとされています。
1970年代はいわば内戦の様相を呈し、経済活動の長期停滞による疲弊も限界にまで達したところで沈静化に向かいました。1976年、毛沢東の死去により、約10年に及ぶ文化大革命が終焉を迎えることとなります。
[国連加盟と対外戦略]
1970年代には国際社会での位置づけが大きく変化しています。
1969年に起きた国境紛争を契機にソビエト(当時)との関係は悪化していきましたが、一方で、西側諸国との関係改善を模索します。1972年には米ニクソン大統領、日本の田中角栄首相が相次いで訪中し、同年2月28日にアメリカと中国で「第一次米中共同声明」、そして同年9月29日に日本と中国で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」に署名したことから3カ国の国交が樹立しました。
また、1971年に国連の代表権が中華人民共和国に移り、国連常任理事国となります。第二次世界大戦の一応の終結と、国際社会の足場が固められた時期となりました。
[改革開放路線の始まり]
1977年には、失脚していた鄧小平と修正主義者といわれていた現実主義的な立場の指導者たちが復帰を果たし、改革開放路線に進むことになります。農村で余剰生産物の販売をできるようにしたり、企業の独立採算を認めたりしながら、計画経済に市場経済の要素を加えていき、段階的に商品価格が市場原理によって決まるような方向にはっきりと舵がとられました。
日米との国交正常化を契機として西側諸国との関係を改善したことにより、経済援助を取り込みつつ経済の拡大と生産力の増大を図り、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長します。
[天安門事件]
1980年代に入ると、改革開放路線は加速し、より自由な経済活動が行われるようになりました。それに伴い言論の自由を求める民主化の動きも盛んになりました。民主化に積極的であった中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦の死去をきっかけとして、学生、知識人を中心とした市民の不満が高まり、1989年6月、天安門広場での大規模なデモが起きました。
これに対して政府は保守派勢力が主導権をとり、中国人民解放軍によりデモを武力弾圧します。経済は改革開放路線をとっていますが、共産党独裁体制の脅威となる動きに対しては強硬姿勢をとることを国民に示しました。
[高度経済成長時代へ]
1993年に江沢民が国家主席に就任し、鄧小平の後継者として改革開放路線を概ね引き継ぎ、よりいっそうの経済発展を推し進めることとなります。GDPが1990年の3,888億USドルから2000年の1兆71億USドルになるなど、高度経済成長時代となりました。2001年には中国は世界貿易機関(WTO)へ加盟し、国際経済においても経済開放に向かいました。また、1997年に香港、1999年に澳門(マカオ)が中国に返還され、一国二制度といった柔軟な対応をしています。
2005年以降、胡錦濤総書記と温家宝総理体制となり、経済成長と開放路線が続きました。東部沿岸地域を先行させて牽引力とするといった考え方が優勢だった江沢民時代に比べると、より中国全域の成長を重視する姿勢が打ち出されました。
2008年の北京オリンピック、2010年の上海万国博覧会など、国の威信をかけた大型プロジェクトもあり、世界経済を牽引する立場にもなりました。そして、今後は経済成長のひずみとされる貧富の格差などの課題に取り組む姿勢が打ち出されました。
[習近平体制と日中関係]
2012年11月から翌年にかけて、中国首脳部は習近平・李克強による体制へと移行しました。目覚ましい高度経済成長時代が終焉を向かえ、貧富の格差、政治腐敗、デモの頻発、少数民族の自治独立問題など、多くの課題を抱えての新体制の始まりとなりました。新体制では、李克強首相が主導して、構造改革を進めることによって緩やかな経済成長と社会の安定を目指すという、いわゆるリコノミクスといわれる方針が打ち出されています。エネルギーや金融部門の既得権益に切り込むことも予想され、政治的な意味合いも強く、今後の動向に注目が集まっています。
また、2012年9月に日本政府による尖閣諸島の国有化の後、中国国内での反日感情が高まり、日本製品の不買運動や日本企業への破壊行為が広がりました。これらの過激な動きは鎮静化されましたが、その後も日中関係は緊張した状態が続いていると言われ、経済分野においてもチャイナリスクの再検証をする動きも出始めたと言われています。中国国内問題と日中関係は密接にリンクしており、今後の動きにさらなる注視が求められるところです。
Creater : HIROKI HAGIUDA